鈴木健.txt/場外乱闘 番外編

スカパー!公認番組ガイド誌『月刊スカパー!』(ぴあ発行)のスポーツ(バトル)では、サムライTVにて解説を務める鈴木健.txt氏が毎月旬なゲスト選手を招き、インタビュー形式で連載中の「鈴木健.txt/場外乱闘」が掲載されています。現在発売中の2017年9月号には、第45回ゲストとしてKAIENTAI DOJO・TAKAみちのく選手が登場。誌面では惜しくも載せられなかった部分を含めて大公開!!

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TAKAみちのく(KAIENTAI DOJO)x鈴木健.txt 場外乱闘 番外編

六畳一間から世界最高峰まで
26年目に入っても落ち着かない

TAKAみちのく(KAIENTAI DOJO)

©KAIENTAI DOJO/FIGHTING TV サムライ/カメラマン:中原義史

じつはプロレスサミットに出場していたレインメーカー

―25年前、デビューした9月4日に同じ会場の後楽園ホールを取ることができたのはラッキーでしたね。

TAKA 月曜だったんで、あっさり空いてたんですよ。まあ月曜はリスクなんだけど、リアル・デビュー25周年記念日なんでみんなの反対を押し切りました。10周年は…KAIENTAI DOJO初の後楽園。

―あれも9月(30日)でしたよね。新日本プロレスの真壁刀義(当時・伸也)選手がプエルトリコから日本に戻ってきての初戦が他団体というサプライズ。

TAKA 15周年が真霜拳號と後楽園で肩を脱臼してやった死闘になって、20周年は外道さんとのシングルと、ボス(鈴木みのる)と6人タッグで対戦。そして25周年と…四半世紀、プロレスラーとして生きることができました。その意味でも今までの区切りの年よりも意義が大きいと思うね。だから今まで以上に自分のやりたいことや呼びたい人たちを集めたかった。

―ユニバーサルプロレス、みちのくプロレスで同時代を生きてきた選手とK-DOJOを一緒にスタートさせた1期生、さらには現在形の関係にある鈴木みのる選手に4月のK-DOJO後楽園大会で一騎打ちをおこなった飯伏幸太選手、そして新日本プロレスのオカダ・カズチカ選手と、まさに25年間を網羅しています。

TAKA ムダに豪華! ヘッヘッヘッ。まあ、25年間プロレス界で生きてきた証としてね。オカダって、そんな深い何かがあったっけ?って思われるんだろうけど、世界のトップレスラーと肌を合わせてみたいというのがあったし、ウチの若い連中にも間近から見ることで何かを感じてほしかった。

―カードはTAKAみちのく&飯伏幸太vsオカダ・カズチカ&外道です。

TAKA 飯伏は1回言ったぐらいじゃスルーする。10回言ってようやく「うん」っていうヤツだから、それで発表まで時間がかかった。あとオカダとはこういう過去があるんですよ。2008年の大晦日に「プロレスサミット」を後楽園で開催したんだけど、その第1試合に“岡田かずちか”が出ているという。

―ありましたね!(岡田かずちか&小部卓真&シークワーサー仮面vs吉川祐太&タダスケ&岡林裕二=岡林がシークワーサーにアルゼンチン・バックブリーカーで勝利)

TAKA プロデューサーだった俺がインディーサミットからプロレスサミットに発展させたということでメジャー、インディー問わず日本のあらゆる団体の選手を出さないとと思って新日本、全日本、ノアの選手に出てもらった。その時に新日本から出たのが現在のレインメーカーだったという。たぶん俺、エラそうなことを言ってたんだろうな。

―CHAOSvs鈴木軍の中で何回か当たっているんですよね。

TAKA あるけど本当にちょっと触れただけ。25年やってもレスラーとしての意地やプライドはあるんで、世界の頂点に触れてみたいと思ったんです。これまで歩んできたものも見せるけど、自分自身は過去ではなく現在として勝負したかった。外道さんは20周年でシングルやったけど何度でも対戦したいと思える存在。そういう相手って、あまりいない。

―現在形にこだわった根底にはどんな思いがあるんでしょう。

TAKA 自分は生きているかぎりプロレスラーだと思っているんで。生涯現役って言っているし、死ぬひとつ前の試合が引退試合。だから引退試合と銘打ってやることもないし、この25周年も通過点にすぎない。このまま50周年になっても七十代でしょ。七十代の現役っていったら(グレート)小鹿さんがいるじゃないですか。ああしてやっている方がいるんだから、自分もできるはずだと。35歳から健康に気を使うようになってコンディションはすごくいいんです。肩だけはもう治りようがないけど、それ以外の体調、メンタルは非常にいい。

―肩の脱臼はキャリアの中でも早い段階で癖になってしまい、長い付き合いが強いられていますよね。

TAKA うまく付き合いながらやっています。ケガをしないプロレスをやっているんで。別に手を抜いているんじゃなくて、ケガをしない技術というのがある。それを身につけてからは脱臼しなくなりましたから。

―そのような状態で25年も続けるだけで大変なことです。

TAKA デビューした頃は、25年後に自分がどうなっているかなんて想像もしてなかったですからね。ただ、あの時点で自分の中では生涯現役でやりたいっていう思いはあったんで、それが今のところできているのはよかったと思いますよ。

―デビュー戦のことは今も憶えていますか。

TAKA まず、その日は会場へ着く前にトラブルがあってね。若手の雑用でレンタカーを借りて走っていたんですけど、進路変更をしちゃいけないところでしたら、それが王子警察署の真ん前で。「ピーッ!」って笛を吹かれて捕まりました。それで慌てて後楽園にいって。試合用のコスチュームなんて用意していなかったからありものの…下は黒い道着で上はマントと三度笠。

―ザ・グレート・サスケ選手がデビュー時にMASAみちのくのリングネームで三度笠姿のキャラクターだったのを受け継いだ形でした。

TAKA すっげー嫌みを言われましたよ。「俺の名前を汚すんじゃねえ!」とか。デビューを決めた新間(寿恒)代表が「MASA、TAKAのセコンドにつけよ」と言っても、目の前で「俺は嫌だからな!」って言われましたから。でも当然ですよ、入門して3ヵ月でデビューですから技術も何もあったもんじゃない。外国人選手が来日できなくなって1人分空いたんで、高校時代にレスリングをやっていたならいいだろうっていう感じで1週間前に言われたんです。そこで「できません!」とは言わずに、デビューできるならと思って「できます!」って言っちゃった。

―デビュー前後はどんな生活をしていたんですか。

TAKA ディック東郷(当時は巌鉄魁)がメキシコへ修行にいくっていうんで、住んでいた巣鴨のアパートにヨネちゃん(気仙沼二郎)と2人で住んでいました。六畳一間の風呂なし。

―一人あたり三畳。

TAKA 布団を敷いて寝たらすき間がないから動けない。自分は居候させてもらう立場だったから家賃は払っていなかったんですけど。

―沼二郎選手が一人で払っていたんですか。

TAKA まあ、そういうこと。風呂がないから銭湯にいくんだけど、夏はアパートへ戻る間にまた汗をかいて、これじゃ同じじゃんって。男二人が暑苦しい空間でジッとしていました。

―沼二郎選手は高校の時点でレスリングの大会で出逢っていて、その後同じ団体で歩んでお互い四十代になっていずれもお子さんに恵まれるという。

TAKA 腐れ縁だよね。まさかこんなに長く続くとは思わなかった。

―高校を卒業して盛岡から東京へ出てきてしばらくは赤羽の印刷会社で働いていたのが、プロレスへ専念するために辞めたじゃないですか。そのあとは何か仕事もしていたんですか。

TAKA モノレールに乗って羽田空港の途中にある冷凍倉庫で、ベルトコンベアで流れてくる冷凍食品を仕分けするアルバイトをやっていました。日雇いで一日1万円もらえたんだけど、1万円あれば3週間生きられましたから。とにかく体をデカくしたかったから、まずは安いコメを大量に買って、コンビニで総菜を3つ、よくて4つ買ってそれをおかずに3合食ってました。でも、そんなので大きくなるわけがない。全部、出てオシマイですよ。ジムにいく金なんてないから、公園で懸垂とかプッシュアップをやったりね。

お互いに裸の状態でサスケから聞かされたみちのくプロレス計画

―そうして苦労しつつ迎えたデビュー戦で、勝ったんですよね。

TAKA 相手は1、2年先輩だから(スペル・ティグリート)当然、ボコボコにされるわけですよ。それでヤケクソになってレスリングの技しかないからって、強引にフロント・スープレックスで持っていったら垂直に突き刺さっちゃって。そこから強引に押さえ込んだらカウント3が入った。そうしたら試合後に相手の人が怒って、またボッコボコにされて、試合中じゃなく試合後に両方の鼓膜が破れるという。いや、わかるんですよ。ユニバ旗揚げ直後の一番大変な時期に入ってきて、一人で雑用したりとかすごく苦労してデビューした人だったんで、ポッと出の新人に負けたとなったらそりゃあキレますよ。

―ティグリート選手はその後、辞めてしまったんですよね。

TAKA 今、どこで何をやっているのか…これほどネットが発達していても情報がないですからね。まあそれはさておき、ザ・グレート・サスケですよ。一番嫌いだった。デビュー前、夜中に暗い道を二人で歩いていて、なんか話さなきゃって思うじゃないですか。それでひとこと何かを言ったら「おめえ、いちいち声かけてくんじゃねえよ!」って突き放されたという。「ハァ!? この野郎、いつか殺してやる」って思いました。でもね、あとになってサスケ会長に「TAKAが入ってきた頃は本当に挨拶もできなくて生意気だったよなあ」って言われたことがあって。思い返せばその通りなんですよね。初対面のことも憶えていて、巣鴨のアパートでヨネちゃんとダラーッとしていたらメキシコ修行から帰ってきたサスケ会長が入ってきたんです。そこでヨネちゃんは「はじめまして! お疲れ様です!」って挨拶したんだけど自分は「あ、どうも、お疲れッス」みたいな態度で。それも寝そべったままやったような…気がする。

―そりゃまずいですよ。

TAKA どういう挨拶の仕方をすればいいか、まだ教わってなかったんですよ。でも、そりゃあ、なんだこの野郎って思われますよね。デビュー直後の11月に北海道遠征があったんですけど、帰りのフェリーで風呂へ入ろうとしたら(サスケが)いたんですよ。うわー、やだなあ…思っていたら、そこで初めてノース・イースタン計画を明かされたんです。

―みちのくプロレス旗揚げプランはフェリーの風呂で聞いたと。

TAKA 裸同士が、初めてのマトモな会話ですから。そこで「一緒にやらないか」と誘われて。

―大嫌いな相手に言われたのに、なぜそこで一緒にやろうと思えたんでしょう。

TAKA 初めて人として扱ってくれた嬉しさに心が揺れました。そこで誘ってくれなかったら今の俺は絶対にないですから。だからサスケ会長には今も感謝しているし、みちのくプロレスはふる里だと思っているし絶対になくなってほしくない。必要とあればいつでもいって力になりたいと思っている。

―今の慈悲深く無抵抗主義で多くの信者の皆さんに崇められている心やさしいマスターしか知らない人にとっては、当時のザ・グレート・サスケは衝撃的と思われますが、逆に当時を知る者として現在のマスターはどう映っていますか。

TAKA 人ってこんなにも変わるものなんだなあって。一つ言えるのは、あの頃であっても今であっても変わらないのはやっぱりすごい人であり、すごい人間ですよ。これは、どんなザ・グレート・サスケであっても同じ。

―同じ団体経営者になって理解できたこともあったでしょう。

TAKA それは本当にそう。KAIENTAI DOJOを創ったことによってみちのく時代のサスケ会長…まあ、当時は社長だけどその苦労がわかった。それを思うと俺は本当に出来の悪い息子だったよなあって。あの人が何かをやろうとすると、なんでもかんでもその言動に食ってかかっていましたからね。

―サスケ選手といえば、WWE(当時はWWF)へ入団する時も因縁がありました。

TAKA 自分がWWEにいたこと自体知らないファンの方が多い時代ですもんね。当時(1997年)俺はメキシコにいて、体調が悪いタイミングで「WWFでサスケの相手をしてくれ」って連絡がきたんで断ったんです。にもかかわらず無理やり連れていかれた感じで。まあ、世界最大のプロレス団体で2試合やればいい経験になるかなぐらいにしか思っていなかったのが、当初はサスケ会長が入団するかどうかっていう話が自分の方に契約しないかという話がまわってくるという。

―サスケ会長はみちのくを離れるわけにはいかないから、WWEと両方出られるようにしてほしいとゴネたんですよね。「ビンス(マクマホン)にNOと言ったのは自分だけですよ!」と今なお悦に入っています。

TAKA 俺はWWEに対してまったくあこがれなんてなくて。とにかく早く日本へ帰りたかった。じっさいその後も何試合かやっているうちに、こんな言葉も通じない生活はとてもじゃないけど続けられないと思ってすぐに辞めたくなったんですけど、なんだかんだで続いて。今思うと24~28歳という一番動ける時期に、世界一の現場と裏側を見られたのは本当に恵まれていたと思う。自分がいくまではWCWとの視聴率戦争で負けていたのが、それを逆転させた舞台裏が見られたんですから。またいこうとは思わないけどね。

―今では誰もが羨むステージですよ。

TAKA 言葉以上に、移動に次ぐ移動が自分には無理。時間で抑えつけられるのも性に合わないんで。ビッグショーにワンマッチで呼ばれる形だったら出てみたいとも思うけど、レギュラーで出続けるのはね。今って、俺がいた頃より規律が厳しいっていうじゃない。だから日本からいっている選手の人たちはよくやっているなあって思います。中邑真輔選手に関しては、日本にいる頃からいつかWWEまでいっちゃうだろうなあって思っていました。ああいう舞台が合っている人なんですよ。おそらく、まだまだ上にいきますよ。

―合っているというのはどういう点で?

TAKA 感性というか。向き不向きがある。自分はどっちかというと向いていない人間ですから。でも中邑真輔はWWEがピッタリくる選手だと思っていた。

―向いていないどころか、WWEに所属していながら勝手に日本へ帰ってきてみちのくとかに出場していました。今だったら大問題ですよ。シンスケ・ナカムラが勝手に古巣の新日本へ出るようなものですから。

TAKA 問題にはなったしガミガミ言われましたけど、クビにはならなかった。その意味ではまだ緩かった時代だよね。TVショーの会場へいって貼り出された当日のカードに自分の名前がなかったら、番組中にこっそり会場から帰ってましたからね。今だったら大変でしょ。

―契約書に「他団体へ出てはいけない」みたいなことは入ってなかったんですかね。

TAKA いや、あったでしょ。でも、あんなブ厚いの俺、見てなかったから。全部難しい英語で書かれているのに、わかるわけがないじゃないですか。

―じゃあ、訴えられたら終わりだったんですね。

TAKA FUNAKIはちゃんとしているから全部見ているはずですよ。その頃ってネットが普及し始めた時代だったから、地球の裏側で試合に出てあっという間にアメリカまで伝わっちゃうんですよね。それでビンスに直接「ユー・トラブルメイカー!」って言われた時はこれで終わりかって覚悟しました。いつ辞めてもいいとは思っていたけど、ビンス直々に言われるとズシン!と来る。人間には思えなかったですからね。見た目だけじゃなくデカくてすごいオーラがあるから、恐竜と向かい合っているとしか思えない。向こうからビンスが歩いてくるのが見えたら身を隠していましたから。いや、別に何を言われるわけでもないし気さくに話してくれるんだけど、条件反射ですよ。あれでけっこうジョークを言うんですけど、それもどこまでが笑うところでどこが笑っちゃいけないところかがわからないから困るんです。

―笑うところじゃないのに愛想笑いをしたら、えらいこっちゃです。

TAKA まだ英語がチンプンカンプンだった頃、周りのボーイズが面白がって「TAKA、ビンスに●●●と言ってみろ」とけしかけるんです。まあ、スラングなんですけど日本人にはわからないだろうと思って。それで言われた通りに言うんですけどビンスは「ハァ!?」っていう顔はするけどそこで怒ったりはしない。言わされているのがわかっているんでしょうね。そういう一面もあるけど、やっぱりどんなスーパースターズよりも怖かった。

―にもかかわらずやりたいようにやっていたのだから、すごいことです。

TAKA リング上に関しては真面目にやっていましたから、そこは認められていたのかもね。その日のカードが出るじゃないですか。俺とFUNAKIがアンダーテイカー&ケインとやると。あんなデカい二人を相手に俺たちは何を求められているのかって考えてやっていました。

―それはプロデューサーから指示されるのではなく、自分たちで考えてパフォーマンスをするんですか。

TAKA 入った頃は「もっとテレビ栄えする見せ方を意識しろ」というような指示はありましたけど、その頃はプロデューサーからああしろこうしろっていうのは言われなかった。あのデカいのがゴロゴロいる世界でやったことで、大きい相手とやれる受けの技術が身についたのも大きかった。けっして強くもなければ爆発的な人気があったわけでもないのに、その技術によって俺とFUNAKIは残れたんだと思う。

―2000年4月10日、全米生中継のマンデーナイト・ロウでトリプルHのWWE世界ヘビー級王座へ挑戦したのが、25年間の中で最大の試合ですか。

TAKA 海外はそうだね。国内だとさっき言った真霜との試合かな。それまでは肩を脱臼したら終わっていたんですよ。でも、その試合は途中で脱臼した肩を入れて続けて。真霜も額をザックリやって大流血して、本当に死闘でした。すべてを出し尽くしてお互いボロボロになったあれを超える試合はないと思う。

子どものためなら飛び降りろと言われたら飛び降りられる

―そして2000年にプエルトリコでKAIENTAI DOJOを設立し、02年4月に日本逆上陸を果たします。ウルティモ・ドラゴン校長がメキシコで闘龍門を始めたことに影響を受けてのものでしたが、じっさいにやるとなるとそれまで経営の経験はなかったわけじゃないですか。

TAKA あの頃はなんの根拠もない自信があって、俺のやることに失敗はないって思っていたんですよ。今もそれは変わっていなくて、何かマイナスのことがあっても途中経過にすぎないという考えでやっている。だから、確かにK-DOJOを設立するやあっという間にWWEで蓄えたお金がなくなって、今も毎月末が恐怖なんだけど自分は失敗とは思っていない。

―多くの人材を輩出しつつ、多くの選手たちが卒業していきました。そうした中で団体として続けるモチベーションはどこにあるのでしょう。

TAKA 何よりここが自分の最後の場所だと思っているから。畳んだら一時的にはラクになるかもしれないけど、そのあと一プロレスラーとしてやれなくなったらどうやって食っていくのか。もともとK-DOJOを始めたのは、自分自身の将来のことも考えてものだったしね。自分という人間はプロレスでしかやっていけないのがわかっているから、仮にリングへ上がれなくなっても興行会社として続けていればプロレスに関わり続けることはできるでしょ。卒業していった人間については、願わくばいてほしかったですよ。でもそこは、自分もみちのくを飛び出した人間だから縛りつけることはできない。今回の1期生のように、いつでも戻って来られる形にはしているんで

―3期生だった木髙イサミ選手(プロレスリングBASARA)がK-DOJOの至宝であるCHAMPION OF STRONGEST-K王座を奪取して、TAKA代表が挑戦する時代ですからね(7月16日、TKPガーデンシティ千葉。結果は王座奪取ならず)。

TAKA 日本逆上陸してから15年かけて、あの時から蒔き続けた種が実になってきたということだよね。これが20年、30年いったらもっと芽が出るだろうし。足並み揃えてやってきた大日本プロレスとDDTが両国国技館でやれるようになったのを見て、やっぱり負けたくないという気持ちはあるし、追いつかないといけないと思うし。15周年記念大会のタイミングで両国やりたいと思ったんだけど、後楽園ホールを毎回埋めることもできない現状を見て踏みとどまった。足元を見られるようになったんですよ。昔だったら勢いでやっちゃえって決行して、国技館に1000人ぐらいしか入らないでコケちゃっていた。そのへんは経営者にまわったことで、考え方が変わったよね。

―大事なことです。

TAKA でもさ、みんな笑うかもしれないけど俺は本気で不可能じゃないって思っているから。この25年間で培ってきた横のつながりがいっぱいあるんで、それを駆使すれば夢ではないよ。そのためにはまず自分自身がプレイヤーとしても経営者としても成長しなきゃいけないし、大会場でのビッグマッチを可能とさせる選手を育てなければならない。

―そこは元NEX4(吉田綾斗、最上九、GO浅川、ダイナソー拓真)の成長によってK-DOJOの風景が急速に変わっているので、期待が持てます。

TAKA 残って頑張ってくれている選手たちにはもちろん報われてほしいけど、千葉から離れていった選手もそういう時にはみんなで集まろうよというのも本心。千葉から東京に移ったらっていうこともよく言われるけど、確かに動きやすいっていうのはあっても東京はこれほどの団体がひしめく激戦区ですからね。そこは千葉に密着したプロレスに意義を持っているんで。そしていつの日か、チバリーヒルズを建てたい。

―チバリーヒルズ!

TAKA プロレス総合ビルですよ。会場も道場もあって、一般も練習できるジムがあって飲食もできるみたいな。

―父親としても、自分の子どもに見せたいですよね。

TAKA 子どもができて人生観変わったね。もともとはそんなにほしいと思っていなかったんだけど、やっぱり両親に孫を見せたいというのと、一人ぐらいは自分の遺伝子を残しておくのもいいかなって。いろんな人に「子どもができたら変わるよ」と言われて、そのたびに変わるわけねえじゃん!って思っていたら、ガラッと変わりましたね。これを守るためなら、今ここから飛び降りろと言われたら飛び降りられるって思えるようになった。今、夜中の3時、4時に起きてミルクをやっていますけど、それがまったく苦じゃない。メチャクチャ眠いんですけど、一日ごとの成長を見るのが楽しみで。全然平気でできる自分に驚くんです。そこはサスケイズムですよ。自分で自分を追い込んで、そのシチュエーションを楽しんでいるみたいな。

―マスターはどちらかというと、追い込まれているようにしか見えないですが。

TAKA 結果、そうかもね。でも、あえてギリギリの新幹線に飛び乗ったりしているようにしか見えなかったからね。大変だとかいいつつこれ、絶対わざとやってるよって。普通だと物足りなくなる人間なんでしょうね、サスケ会長も俺も。だから26年目からも落ち着かないと思います。