鈴木健.txt/場外乱闘 番外編

スカパー!公認番組ガイド誌『月刊スカパー!』(ぴあ発行)のスポーツ(バトル)では、サムライTVにて解説を務める鈴木健.txt氏が毎月旬なゲスト選手を招き、インタビュー形式で連載中の「鈴木健.txt/場外乱闘」が掲載されています。現在発売中の2016年9月号には、第35回ゲストとして9月15日にデビュー20周年を迎えるプロレスリングFREEDOMSの佐々木貴選手が登場。誌面では惜しくも載せられなかった部分を含めて大公開!!

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佐々木貴(プロレスリングFREEDOMS)x鈴木健.txt 場外乱闘 番外編

アナログかもしれないけど
直接的なやり方だからこそ
一度心をつかんだら離さない

佐々木貴(プロレスリングFREEDOMS)

© プロレスリングFREEDOMS/FIGHTING TV サムライ/蔦野裕(カメラマン)

20年続けるなど想像も
できなかったデビュー時

―佐々木さんのことはDDTの若手時代から取材させていただいてきましたが、20周年なんですね。おめでとうございます。

 じつは僕も気がつかなかったんです。去年の今頃(8月上旬)に2016年の後楽園ホールを押さえる希望日を申請したんですけど、その時点で8月から9月の上旬にかけて改装工事をするので9月の中旬までは使用できませんって言われたんです。8月は毎年、葛西純プロデュース興行をやっていてそれができないなって思ったんですけど、とりあえず7月と9月で空いているところをくださいってお願いしました。

―葛西興行は7月13日に開催されましたね。

 それで後楽園ホールさんに9月15日が空いていますと言われたんで、本当に何も考えずにお願いしますと。そのあと9月15日ってなんかの日だよなあ…と思って、よくよく考えたら自分のデビュー戦の日だった。それで何年前だったかなって、これも考えたら1996年。あれ? ちょうど20年前だってなって。こんなにドンピシャだったら記念大会にするしかないと。

―日付までピッタリで会場が空いていたというのもすごいですね。

 後楽園ホールさんから言っていただけなかったらスルーしていましたよ。これはプロレスの神様がくれたプレゼントだと勝手に思っています。

―いやー、当時の状況(IWA格闘志塾に入門し、トーカイブシドーX戦でデビュー)を思えばデビューできても20年先、自分がプロレスを続けていられるとは想像もできなかったのではないですか。

 その通りですよ。20年前は鶴見五郎さんのドライバーみたいなものでしたからね。車をぶつけたり、鶴見さんが飲みたいビールを買ってこさせられたり…もちろん鶴見ジムでプロレスラーになるための練習はしていましたけど、体も60kg台で全然細かったんでなれるんかなあ…って思っていました。体もなければ力もない、じゃあ俺は何があるのかなって思ったらプロレスが好きだっていうことしかなかった

―プロレスラーになってこういうことをやりたいという夢はあったんですか。

 ありましたけど漠然としたもので、具体的にチャンピオンになりたいとか、誰々と対戦してみたいなんていうのは一切なかったです。本当に、当時の自分を思えば身の程知らずもいいところなんですけど、パワーファイターになりたいと。60kgそこそこしかないのに長州力や橋本真也のように力でガンガン攻めるようなプロレスラーになりたいと思っていました。よくもまあ19、20歳ぐらいのガキンチョが言っていたものだなって。

―頑張ればプロレスラーとして続けていけそうだという手応えがつかめたのはどれぐらいの段階だったんでしょう。

 鶴見さんのところでデビューした時も突然言われたし、デビューしたあともこれで俺の夢がかなった!っていう思いはなかったんです。逆に、自分が夢にまで見てあこがれたプロレスラーがこんなんでいいのかなと。

―あー、IWA格闘志塾といえば怪奇派の宝庫でした。

 鶴見さんにジムで教わっていたこととリング上の風景があまりにもかけ離れすぎて。あれはあれで鶴見さんにちゃんと考えがあってやっていたんですけど。「パブリックプロレス」と呼んでいて、ああいうのが世間一般にわかりやすく届くという考えでした。

―そうしたらマニアばかりが集まる空間になってしまいました。

 ごくごく一部のマニアしか来ないという。でも鶴見さんにはそういう信念があって、ウルトラマンのように正義の味方の自分が怪奇派をやっつければ喜ぶだろうと。

―どちらかというと鶴見さんの方が怪奇派ですよ。

 そうですよねえ。あとは自分にも自信がなかったですし。それもあって鶴見さんのところをステップアップのためにやめてDDTに入るんですけど、そこでは木村浩一郎さんの鬼のシゴキがあったわけです。鶴見さんは教えることに関してはやさしくて、メニューはしっかりしていてもぶん殴ったりはしないんで練習はついていけた。辛いとかやめたいとか思ったことはなかったのが…木村さんは一転するわけです。

―アーリーDDT名物群馬特訓を経験していますよね。

 木村さんの住んでいる群馬に高木(三四郎)さんの運転する車で通ったという。とにかく関節を決められてもう動けなくなったところから基礎体力運動が始まって、できなければ殴られる。でも、その厳しさによってプロレスラーってこうだよなあって思えるようになれました。この練習を耐えてリングに立っているという誇りが、木村さんのおかげで持てるようになった。あとは、当時のDDTは名もなきインディーの若手選手が旗揚げした団体でしたけど、雰囲気や高木三四郎のバイタリティーを見て、いつかは化けるなって根拠はないんですけど思ったんです。だからここで頑張っていけば団体と一緒に自分もいつかは大きくなれるという気持ちでした。後楽園ホールを毎月満杯にするぐらいまでにはなるなと。まさか両国国技館に進出するまでになるとは思わなかったですけどね。

―そのDDTから、WEWに参戦したことで外を見て、もっといろんな人とやりたいと思い団体を離れアパッチプロレス軍所属となりました。

 「フリーは大変だから金村(キンタロー)さんのところで世話になれ」って高木さんが言ってくれて入団したんですけど、アパッチは団体というよりも個人の集団という感じでやっていましたね。その前後でGENTAROと出逢うわけですけど、木村さんも金村キンタローもどちらかというとガムシャラに闘うような精神論の発想だったのが、そこでプロレスはただ殴り合うんじゃなくお客さんに向けて見せる部分が別にあるっていうことをつかみ始めたんです。あまり褒めるのはシャクですけど、GENTAROと組んだのは大きかったし、あとは岡野さん(ジ・ウインガー)からもそういうのを学びましたね。

―GENTARO選手とのアカレンジャーズっていうチーム名はどちらがつけたんですか。

 なんとなく、2人ですね。要はどっちも「俺がリーダーだ!」って譲らなかったんです。リーダーっていったらアカレンジャーだろ、じゃあ俺がアカレンジャーでおまえはピンクのコスチュームだからモモレンジャーだ、いや俺の方がアカレンジャーだとか言っているうちに、両方アカレンジャーなんだからアカレンジャーズでいいじゃねえかってなったんです。

―今も2人ともリーダーなんですね。

 あいつはけっこういろんな団体を渡り歩いている中で、僕との関係だけが崩れていないのは不思議ですよね。一緒に飯食いにいこうなんていうこともないし、地方にいっても僕は飲みにいくけど彼はホテルに帰って寝たいというタイプなんで。でも、よくわからない信頼関係は厚いと思います。

―そこはよくわからないではなく普通に信頼関係っていいましょうよ。アパッチでやっていた時に選手の不祥事があって、団体として続けられなくなりました。活動休止となった時に、自分で団体を始めるという以外の選択肢も頭にあったんですか。

 当時の僕は大日本プロレスにレギュラー参戦していたんで、アパッチが解散となった時に自分や葛西はこのまま呼んでもらえるかもしれないけど、ほかの選手たちはレギュラー参戦している団体がなかったんで、彼らの活躍の場をキープするには旗揚げするしかないという思いしかなかったです。

―自分ではなく他のメンバーのために団体を設立すると。

 もうひとつ大きかったのは、アパッチに所属していたHi69が試合中に背骨を折って2年以上も欠場を続けていて、その間に自分の団体がなくなって復帰した時に上がるリングがないなんてなったら、あんまりな話じゃないですか。マンモス(佐々木)も車で当てられて頸椎をやって1年ぐらい休んでいて、その2人が帰ってくる場所をなんとかしたいという思いもありました。

―なんとかしたいという気持ちがあっても、それまで団体を経営する経験はなかったわけで。一選手としてリングに上がるのとではわけが違います。

 経験がなかったどころかパソコンの電源の入れ方も知らなかったですからね。マスコミさんにリリースを送るのもわからないし、FAXもパソコンを使えないから手書きになっちゃうし。何から手をつけたらいいかわからないし、もちろんお金もなかった…たぶん、後先を考えなかったのがよかったんでしょうね。

―スタート時は専属のスタッフはいましたっけ?

 いなかったです。1人手伝ってもらって事務所の管理とかをやってもらったんですけど。あとはプロレス団体で働いた経験があるという女の子に受付をお願いしたぐらい。今振り返ると恐ろしいですよね。それで大赤字こいたらどうしていたのかと。その頃、ウチの嫁さんが妊娠していて、子供ができてから借金をこさえたらどうするつもりだったんだって、あとから言われました。

―最初は会社組織ではなかったんですよね。

 そうです。手伝っていただいた方が自分の会社を持っていたんで、そこの子会社にしてもらって面倒を見ていただきました。でも、いつまでもおんぶにだっこでお世話になりっ放しじゃいけないし、自分たちで株式会社として独立しないと、いただいたありがたい話も法人じゃないということで消えるパターンもけっこうあったんで、それで今年の春に会社として起ち上げたんです。

―DDT在籍時に高木選手の社長としての苦労を間近から見ていました。

 だけど、それでわかっているつもりだったのがまったくもってわかっていなかったなって、自分で始めてから思いました。これだけのことを高木さんはやっていたんだなと。たぶん、ウチの選手たちも僕が会社のために何をどこまでやっているのかっていうのは知らないでしょうね。

―リング上に関して、こういう団体にしたいというのは最初の時点であったんですか。

 それがそのまま団体名になったわけですけど、自分が代表になるといってもみんなを縛りたくなかったんです。ウチはこういう団体なんだからそれに合わせろよとか、そういうのは言いたくなかった。とにかく伸び伸びとやってほしかったのがまずひとつ。あと、ウチは葛西しかりマンモスしかりウインガーしかり、みんながみんなインディーの苦労人で一度は所属していた団体が崩壊、解散したり長期欠場したりという経験をしてきているじゃないですか。でもリングに上がれば腕が立つスペシャリストなんで、それを上からああしろこうしろ言うんじゃなく、自分の持てるものを自由に表現してくれた方が絶対にいいと思いました。そうしたらあいつら、リング上だけでなくプライベートまで好きにやりやがって…まあ、それも法に触れなければ、人様に迷惑かけなければいいんで、自由にプロレスラーという職業を楽しんでほしいし、その上でファンを100%楽しませるようにという考えですよね。

―プロレスリングFREEDOMSという団体名はそこから始まっているんですね。

 僕を含め葛西、ウインガー、GENTARO、マンモスの上5人も、もう全員四十代です。正直、あと何年できるかといったらわからない。そんな彼らが引退を決意した時に俺のプロレス人生はしあわせだったなと思って引退できるようにするのが、僕の仕事だと思っているんです。あの時は金がなかったな、団体が潰れて哀しい思いをしたよな、ケガで1年も2年も出られなかったよな、だけど…プロレスラー人生を歩んできてよかったなあって思えるようにしたい。こんな仕事やるんじゃなかったって思わせて引退したら、第二の人生に影響が出ますから。

夏フェスのようなものを
春夏秋冬やりたい

―その自由にやらせている中の一つにデスマッチがあるという認識ですよね。

 そうなんです。FREEDOMSはデスマッチ団体なんですかって言われるんですけど、そうじゃないよと。ウチは、デスマッチ団体は名乗っていないですけどやっぱり葛西純のデスマッチにはインパクトがあるし、それにあこがれて吹本賢児や正岡大介たちが入ってきた。でもマンモスと体と体でぶつかり合いたい、GENTAROとレスリングをやりたい、ウインガーとルチャをやりたいっていうやつが出てきてもいいと思うんです。

―自由にやりすぎるからなのか、先ほどから話が出ているようにFREEDOMSの選手たちはこれからという時に欠場してしまうケースが多いですよね。それは代表としても大変なことと思われます。

 みんなそれぞれ家族がいるんで、選手の向こう側まで考えてやってあげなければと思いますよね。11人しかいないのに今も3人欠場していますから。全員揃う方が珍しくて一回、全員揃ったからって記念撮影しましたからね。僕はそこまでの大ケガは幸い負っていないですけど。

―そういう中でもマンモス選手が力士時代に付け人を務めていた曙選手とやりたい言った時は実現させたし、天龍源一郎さんの引退ロードにおいても招へいするなど、団体として大きなことをやってきています。

 選手から出された希望は極力かなえてあげたいですよね。交渉するのも、大物選手にギャランティーを直接お渡しして領収書をいただくのも僕なんですけど、領収書に“藤波辰爾”って書かれていると、不思議な気持ちになりました。

―スタッフさんに任せていないんですね。

 本音を言えば任せてリング上に専念したいですけど、任せられる人材を育てられていないところは僕の力不足。ただ、僕も選手なんでギャランティーを受け取るというのが大事なことなのを知っているわけです。気持ちの問題として、誰だか顔も知らないようなスーツを来た兄ちゃんから渡されるのと、代表である僕から「本日はありがとうございました」と渡されるのとでは受け取る側も違うと思うんですよ。それもあってこの7年間は可能な限り自分で渡すようにしています。

―そういう上に立って全体を見る経験は学生時代やクラブ活動でしてきたんですか。

 あー、小中高と生徒会長をやっていました。

―ええっ、DDTでやっていた生徒会長キャラはホンモノだったんですか!?

 そうなんです。小学生の時に生徒会長やりたいわけではなかったんですけど、次の会長どうする?ってなった時に、誰も立候補しない中でおまえがやれってみんなが言って。いやだったけど、みんなが言うならじゃあやるよと。それで田舎なもんだから幼稚園の年少から中学3年まではほぼ同じメンバーなんです。だから、中学になってもおまえは小学校で生徒会長だったから中学でもやれとなって。高校にいったらいろんな学校から集まるからやらなくてもいいなと思っていたら、担任の先生が「佐々木クンは生徒会長やってたんだねー」とかよけいなことを言いやがって。入学式の時点で僕のあだ名が“会長”になってしまったという。それで3年になったら当然のごとく、生徒会長やっていたんだからやればいいんじゃないみたいな感じで…一回もやりたいって言っていないのに!

―望んでいるわけではないのに人の上に立って引っ張る役どころが運命づけられていると。

 FREEDOMS設立も自分で望んだわけではなく状況がそうさせたわけですから。あのままアパッチの解散がなければあり得なかった。だけど、あそこで初めて俺がやる!っていう気になったんですよね。

―自分よりも先に誰かがやるって言い出したら…たとえばウインガー選手とかが。

 絶対ないです。誰もついていかない。たぶん止めて自分がやっていたでしょうね。自発的ではないけれど、今は本当にやり甲斐を感じています。たとえば若いスタッフに地方へ営業にいかせればいいんでしょうけど、やっぱり自分でいきたいんですよね。

―ブログを見ると毎日のように営業でどこかにいっていますよね。飛び込みでいく時も?

 あります、あります。この取材のあとも新橋にいくんです。(元気)美佐恵ちゃんが(ザ・グレート)カブキさんの店を継いで飯田橋でやっていて、そこにポスターを貼らせてもらいにいったらカウンターで飲んでいたおじさんが「キミ、プロレスラーなの!? 応援するから今度ポスター貼りにおいでよ」って名刺をくれたんです。半信半疑で連絡したら新橋の知っている店を一緒に回ってくれると。いや、自分で言うのもなんですけど僕は人に恵まれています。10月16日に沖縄の宮古島でやることになったんですけど、それも広島で営業していた時、夜中の3時頃になったのでもう帰ろうかと思ったのに、なんか気になって一軒、ゲイバーに入ったんです。ポスターを貼らせてもらって、お店の人は「あらー、いい体してるわねー」とか言うんですけど、別にそれ以上のことはなかった。そうしたら、これもたまたまカウンターで飲んでいたおじさんが「プロレスラーなの? 宮古島でプロレスできる?」って振ってきたんです。こっちはできるどころかむしろやりたいぐらいですって言ったら「じゃあ、やってよ! 娯楽がなくて暇なんだ。こっちもたくさん呼ぶようにするからさ」ってなって。その方の顔で開催できるようになりました。何年か前に沖縄プロレスがいったぐらいで、催し物自体がないから皆さん、楽しみにしてくれると思います。

―それも自分で動かなければ縁は巡ってこなかったでしょう。

 家なり事務所なりから出なかったら起きなかったことですよね。たとえその場でチケットを買うよとはならなくても、いろんなところへ飛び込んでいけばどこでどんな出逢いがあるかわからないじゃないですか。やっていることはものすごくアナログで遠回りかもしれないけど、最新のやり方が僕にはわからない。ツィッターもわけがわからないまま始めたぐらいですから。でも、直接的なやり方だからこそ一度心をつかんだら離さない。そういう営業の仕方で一つひとつ人脈を広めてきましたね。

―そうやって団体を運営しつつ、プレイヤーとしても20年目を迎えました。今後、両方の面でやりたいことをそれぞれあげてください。

 まず、20周年関しては大会の主旨としてメモリアル的なものを見せるか、現在進行形を見せるかに分かれると思うんですけど、僕は今のFREEDOMS、今の佐々木貴を見せたいです。正直、今年に入って勝ち星に恵まれず不甲斐ない姿を見せてきたかもしれないけど、この節目を迎えることで年老いて退いていくのではなく、20年目からさらに燃えあがれるような姿を見せたいので。法人化が進んで落ち着いてきたところではありますが、会社も佐々木貴も落ち着いてはいられない。勝負を懸けられる20周年にしたいですね。

―去年は団体の目標として後楽園ホール大会を増やしたいと発言しておりましたが、その通り増えました。次の段階は何になるでしょう。

 今、インディー団体にとって両国国技館に進出するのがステータスになっていますけど、僕は同じことはしたくないなっていうひねくれた部分があって。それで後楽園の数が増えたといっても毎回超満員かというとそうではないだけに、まずは後楽園大会で超満員を続けられるようにするのが先決。その次のステップはまだ見いだせていないのが正直なところですね。両国みたいな大会場に進出するのもいいですけど、個人的には野外でバカなことがしたいんです。音楽も飲食もあるけど、メインはFREEDOMSのプロレス。夏フェスみたいなのを、夏だけでなく春夏秋冬やれたらなと思いますね。

―真冬でも野外でやると。

 真冬にやるからこそフリーダムなプロレスじゃないですか。でも、何よりも今はFREEOMSのメンバー全員が揃うことです。腕がポッキリ折れた神威がもうちょっと時間がかかりそうなんで。若手のドラゴンリブレも揃えば全員…今年最後の後楽園(12・26)に揃えばなあと。

―それでは最後に、FREEDOMSという団体の魅力をお願いします。

 プロレスにもいろんな見せ方がある中で、こんなにいろんな楽しみ方があるんだということを一枚のチケットで味わえるのがFREEDOMSだと自負しています。ウチの見せるプロレスの中に、必ず自分好みのスタイルが見つけられます。そこから自分の中でプロレスの可能性を広げてもらえると思うんで、ライヴで体感して、プロレスを好きになってもらいたい。そういう中で僕は、スタイルよりも自分の生き様を見せます。これまでも僕は猪突猛進で突っ走ってきたんで、そういう姿勢をリング上でもお見せします。