鈴木健.txt/場外乱闘 番外編

スカパー!公認番組ガイド誌『月刊スカパー!』(ぴあ発行)のスポーツ(バトル)では、サムライTVにて解説を務める鈴木健.txt氏が毎月旬なゲスト選手を招き、インタビュー形式で連載中の「鈴木健.txtの場外乱闘」が掲載されています。現在発売中の2023年3月号では、第104回ゲストとして今年デビュー30周年を迎えるみちのくプロレス・新崎人生選手が登場。誌面では惜しくも載せられなかった部分を含めて大公開!!

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新崎人生(みちのくプロレス)x鈴木健.txt 場外乱闘 番外編

時間をかけて新崎人生を
クリエイトしていくことで
持てるやり甲斐によって
続けられていますよね

新崎人生(みちのくプロレス)

“完”と書かれた卒塔婆を渡され
ムタの魂を預かる身になったと

みちのくプロレスとご自身の30周年について語っていただく前に、先日のグレート・ムタラストマッチについて白使の代理人としてどのように残ったかをお話いただけますか。

人生 いえ…私はムタと武藤(敬司)さんのような代理人契約は結んでいないので、そこは新崎人生として答えさせていただきましょう。自分のレスラー人生の中で大きな分岐点がいくつかあって、その中で最初の大きな分岐点がWWF(現WWE)と契約したこと。そして、それまでは専門誌や専門放送の中でしか知られていなかった新崎人生/白使を世の中に一番届かせたのが1996年4月29日、東京ドームのグレート・ムタ戦だったと思います。あれから26年以上経っている今でも「あの試合見ましたよ!」とお会いした方々に言われるのですが、それほど自身のキャリアの中でもインパクトが強かった一戦だったのだなと、そのたびに実感させられます。そのラストマッチの相手として入れた喜び…というよりも責任感が大きかったですね。自分ではなく、人様の最後の試合になるわけですから、しっかりした形で見送らせていただきたいとの思いが今回、ありました。自分を育ててくれた一戦から、時を経てまたこのタイミングで相対することの重大さですよね。実際に試合をやって思ったのは…あの試合の時点で、私はキャリア3年ぐらいだったんです。

キャリア3年でWWFを経験していたわけです。

人生 日本で1年半、アメリカで1年半のキャリアしかなかったので、ムタの手の平の上で転がされたという思いで。勝ち負けとはまた違う次元での、実力の差が格段にあったことを味わいました。言葉では表現できない差ですね、もっと目に見えないものがあった。あれから26年キャリアを重ねてきて再び挑み、負けはしましたけれどもその時とは違う感覚で、あの時に味わった差が縮まったという感は持てました。

東京ドームで敗れた時は「修行が足りませんでした」とコメントしましたが、その修行の成果が実感できたのですね。

人生 はい。結果は負けという同じものでしたが、26年間で成長したことを改めて感じさせてもらったと申しますか。

グレート・ムタがい続けることで、WWFで終わったはずだった白使が存在し続けたという考え方もできます。

人生 本当にそう思います。WWFへいく前に、当時の週刊プロレスで手紙を残していったのを憶えていますか? 日本へ帰ってくる期限を決めていなかったんですけど「グレート・ムタと対戦する機会が訪れるまでは戻りません」と、そこに意志を記したのです。それほど白使はムタの影を追い求めていたということになります。アメリカで成功した日本人の第一人者という意味で、あこがれとも違う…志すべき存在だったのでしょうね。

あの場にいた誰よりも至近距離から“完”と血で書かれた卒塔婆を見せられました。

人生 あの時はただただ唸らされるしかなかったです。ここでこう来るかというセンス…私も東京ドームと同じように“死”と書くとイメージしていました。その先をいくことをあの場面でできてしまうことがすごいと思いました。

その卒塔婆を渡されました。

人生 あれは大事にしまってあります。

バトンタッチのようなものですよね。

人生 どういう理由で差し出されたかはわかりませんが…ムタの魂を預かる身にはなったとは受け取っています。グレート・ムタではなく武藤さんはBATTで行動をともにした時期があって、みちのく以外の団体で深い関係が持てたという意味では私の中で武藤さん、ハヤブサ、ジャイアント馬場さんの3人が大きな存在になります。

わかりました。では30周年についての話に移ります。みちのくが旗揚げした3カ月後に新崎人生としてデビューしたとあり、周年に関しては団体と同じタイミングで迎える運命にあるんですよね。当時からザ・グレート・サスケ選手が「みちのく50ヵ年計画」を口にしていたわけですが、本当に50年続くと思っていましたか。

人生 26、27歳の頃の50年先というのは遥か遠くの未来と感じていて、みちのくが続いているとしても我々の何世代もあとの人間たちの話だから、まったく自分たちとは関係がないと当時は思っていました。でも半分が過ぎて30周年も迎えた今は、我々の世代で50周年を迎えたいなと強く思っています。ここまでの30年を考えたら、あと20年なんてあっという間としか思えませんので。

ちゃんと3/5までなし得てきています。

人生 それを言い出したサスケは…やはり先を見ていたのだなと。

……見ていたんですかね。

人生 ……まあ、そういうことにしておきましょう。我々がそれを直接言われたことはなくて、リング上や雑誌のインタビューで言っていたのを読んで知るという形でした。その時点では「いったい何を言っているんだろう?」ですよ。

「50年後には月にいってプロレスをやっている」と言っておりました。

人生 だったのが…選手としては唯一の旗揚げから途切れることなく一緒にいる人間同士になってしまいました。これは何度も言っていることなのですが、近くで見ているとすごく面白いんですよ。近寄りすぎると…ダメなんですけれども、適度な距離で見ていると本当に面白い。

そこで“面白い”を選ぶところが人生選手ですよね。

人生 それによって損をした部分も30年間の中ではあるでしょうけど、面白いことでそれ以上の得を与えてもらってきたので。

世の中にはほかにも面白いことがありますよ。何もリスクを背負ってまでして30年も…。

人生 それは周りからもよく言われますけど…うーん、でもわかるでしょう?

私はわかりますけど、なんだかんだで外の人間ですから。そこは内部にいる人生選手とはリスクの大きさが違いすぎますよ! 外の人間は面白がるで済みますけど、中の人間はそれで済まされないこともあるわけで。

人生 たとえ面白がるだけで済まなくとも、そこは高いお金を払ってでも見るのがいいなと。

達観していますねえ。

人生 ですので50ヵ年とか月にいくとか言っていた時点で、この人についていけばきっと面白いことがあるぞというスタンスでしたね。それはこれからも変わらないです。

🄫みちのくプロレス

コンディション維持は結果
自分を守ることが目的

🄫みちのくプロレス

役者を目指していて、人前で表現をする糧になるという理由で始めたプロレスとあって、新崎人生になってからも2、3年でやめるつもりでいたのが30年も続いてしまいました。

人生 それはみちのくプロレスという団体があったからですし、プロレスの奥深さ…ムタとの試合もそうですけど、続けていればこその楽しみにも出逢えるので、やめなくてよかったと心から思います。アメリカから戻ってきた頃には、自分がこの先長い時間をかけて全うする仕事だなと思うようになっていました。私にとって新崎人生は自分であって自分ではない。自分が考えるところのカッコいい男とはどんなものかを考えて形にしているという位置づけなのです。だから時間をかけて、自分の考えやセンスによって新崎人生をクリエイトしていくことで持てるやり甲斐によって続けられていますよね。それはプロレスラーに限らず飲食の経営においても同じで、それらのすべてを含めての新崎人生としてのブランディングだと思っております。

ラーメン店(徳島ラーメン人生)を経営したり、たこ焼き(きいろいタコ)を焼いたりしているのも新崎人生として、ということですか。

人生 そうです。若い頃はプロレスラーとしての新崎人生を見せれば…と思っていたのですが、年齢を重ねてくるとそれ以外の新崎人生のパーツも見せていいのではと思うようになりました。たこ焼きを焼く姿からも新崎人生を感じていただき、人間としての厚みになる。それが感じられず、マイナスになるようだったら自分の名前を出さずにやっていると思います。

新崎人生を長い時間かけてクリエイトするということは、30年のキャリアを重ねた今でも新たなる要素は加わっているということですか。それとも完成形となっているのか。

人生 完成形ではないですよね。そこは年齢によって最適な形が変わってくるという考えです。プラスを重ねていくのではなく、五十代ならば五十代の新崎がいて、80歳になっても現役をやっているとしたら八十代の新崎がいる。その時の状況によっても変わってくるでしょうし、生きている限りは完成形なるものはないです。

仏様の修行と同じで一生続けると。だとしても、現在も素晴らしい肉体を維持していることに敬服させられます。経営者として忙しい中、いつトレーニングをしているのかと。

人生 そこは自分の中でやることの優先順位をつけて、トレーニングは順位が高いものとして時間を見つけてやっています。それをやらないと…若い頃だと練習を少しサボったとしても、直接的にリング上の動きへ影響することがなかった。ケガもしにくいですし。ただ、この年齢になると常にコンディションを整えておかないとすぐリング上でケガをするのです。だから今は“自分を守る”が目的でやっていることになりますね。それをやっていればコンディションは維持できる。

コンディション維持は目的ではなく、結果という考えですね。自分を守ることが目的。

人生 そうです。今はウエートよりも走ったりジャンプしたりというコンディショニング法ですね。先ほど、この年齢でこの肉体を…ということを言われたじゃないですか。でも自分の中ではまだまだなんですよ。同年代のカズさん(三浦知良)は、もっとアスリートとしての能力が求められるサッカーという競技において、若い二十代の中で現役選手としてプレーされている。まったく面識はないのですが、若い頃から目標として見ていたのがカズさんでした。

この肉体でなかったら、あの厳かな入場シーンも受け取られ方が変わってくるでしょう。

人生 そうですよね…どうしましょう、将来。維持と言いますけど、三十代四十代と比べたら筋肉の質も量も落ちているんです。

それを感じさせないですよ。3月5日に地元・徳島で、6月25日には仙台でご自身の30周年記念興行がおこなわれます。徳島ではアジャコング選手と一騎打ちで対戦します。

人生 アジャさんとは30年の中でこれといった接点がなかったので、まさかこのタイミングで一騎打ちをおこなうことになるとは思っていませんでした。1月(14日)の仙台で、タッグマッチで当たったのが初めての対戦。男性と女性は根本的な体の構造上、力の差があるわけですが、アジャさんからはそれがまったく感じられなくて。男女の違いという次元を超えた方だと思いました。実際、体重は自分より重いですしパワーボムにいこうと思っても手が回らず(クラッチを)組めなかったですから。

3・18矢巾町ではサスケ選手が神取忍選手と一騎打ちをおこなうということで、奇しくも30周年の3月にお二人とも女子プロレスの歴史を築いてきた相手と対戦するという。

人生 これも時代なのかもしれません。矢巾がみちのくのとしての30周年記念大会になるわけですけど、3月1日に開催されるジュニアの大会(ALL STAR Jr. FESTIVAL)にみちのくからも出場させていただきますので、そこからみちのく30周年につなげていきたいというのがあります。具体的には(フジタ“Jr”)ハヤトが闘いたい相手としてあげている選手(新日本プロレス・髙橋ヒロム)がおりますので、それを実現させられたらなと。

周年大会となるとこれまではOBの選手たちが参戦し、あの頃の風景を再現させていましたが30周年は違う方向性で?

人生 OBももちろん出場していただくことになるとは思いますが、現体制の人間で何を見せられるかというのも大きなテーマだと思っております。

ザ・グレート・サスケvsスペル・デルフィンの決着戦はやらないんですか。

人生 あれ? もう着いちゃってますよね。あの時(2006年10月8日、岩手県営体育館での一騎打ちでサスケが勝利し試合後、両者握手を交わす)に着いたんじゃないですか?

それがサスケ選手の方が今でも「デルフィンとは和解していない。街で会ったら…(以下略)」と。

人生 まあ…サスケvsデルフィンに関してはまるで考えていなかったです。でも、その世代の選手には協力していただきたいです。

現体制としては、ハヤト選手が復帰後も試合に出場しています。ヒザのケガ、ガンと闘っていた5年間を間近から見続けた一人が人生選手でした。

人生 私としては親の気持ちでハヤトを見ていたので、車イス生活になろうがなんだろうが命さえつないでくれればそれでいいと当初は思っていました。本人に直接言ったかどうかは憶えていないのですが、ハヤトのお父さんとはそういう話をしました。本人の選択でガン細胞を取り除く手術をして結果的に復帰までつながりましたが、そこは本当にすごい選択をしたなと思います。

ガンと診断されたことをご両親にはなかなか言えず、先に人生社長へ報告することになったとハヤト選手が言っていました。

人生 脚が効かなくなるガンだったので、聞かされた瞬間は同じようにそれでも命だけはと思ったんですけど、ハヤト自身は最初から復帰すると言っていましたね。それを自分に置き換えてどちらの選択をするかを考えたら、ハヤトと同じ年齢だったらそうしたかなというのが結論でした。年に何回かは会うようにしていたのですが、コロナになってからは会えなくなって。どういう状況なのかはそのつど連絡を受けていました。本人にとっては復帰することがモチベーションになって、痛みや辛さにも耐えられている。その中で我々がやれることは、手術を受けるたびに「いつ復帰するか」というスタンスでいることでした。どれぐらいでリングに上がれるようになるか、それならばその日まではこうしてこうで…というのを提示して、復帰戦をやれる態勢でいる。でも「じゃあ、この日の後楽園で復帰戦をやろう」と決めながら再発してまた延びるというのが2、3回繰り返されたのです。

そうだったんですね。

人生 そのたびに残念…というか、なんということか、またなのか…ですよね、我々も。だから7月1日の復帰戦も、モチベーションを持つために日時と場所を決めて発表はしたのですが、同じように延びる可能性は想定していました。実際、復帰戦のあとに検査を受けたら体に影が見つかったんです。これが転移だったら危なかったのですが、幸いなことに転移ではなく今もリングに上がり続けていられる。

サスケが現役でいればみちのくは
50周年に到達するということです

その復帰戦を見た思いをお聞かせください。

人生 この間まで車イスだった人間が、よくぞここまで…これはもう、精神力しかないなと。試合の激しさも私の想像を超えていました。これを毎日やったら絶対に体が潰れてしまう。それほどのものを、あの日のハヤトは吐き出していたと思います。だからサムライTVさん(日本インディー大賞)の年間ベストバウトに選ばれたのは、社をあげて喜びましたね。レスラーの自分たちにとっても、すごい試合を見せられたなと。

ハヤト選手にベルトを渡した時の気持ちは…。

人生 いやもう…だいぶこらえたんですけど…だいぶこらえたんですけど、ちょっと無理でしたねえ。おそらく「よくここまで来たな」という言葉を伝えたと思います。自分も…言っていることを正確に憶えているような状況ではありませんでした。

今思うと、ハヤト選手はサスケ選手とは違う形でみちのくに携わる者としての人間力を見せたのだと思います。その意味では30年間の中でちゃんとつながっているのだと。

人生 人間力…ハヤトをスカウトした時のことが思い出されます。なぜ高校時代のハヤトを見た瞬間に、みちのくのエースにしたいと思ったのかというと、とてつもなく大きなものを背負っていて(両親ともに脳性麻痺の障がいを持つ)、人に何かを伝える、表現する我々の世界は単に試合で勝つ負けるではなく、人間の奥深さがないと伝わらないと思うのです。17歳であれほどの境遇を背負っている人間だからこそ伝わる。ましてやハヤトはそれに加えて自分がガンになるという運命と向き合った。そういう人間がリングの上で何かを伝えようとしたら、すごく人の心に刺さるでしょう。一つ言えるのは、十代の頃に会った藤田勇人を、フジタ“Jr”ハヤトは超えてしまったと思います。生と死と向き合った人間でなければ出せない発信力、人間力ですよね。サスケも頭蓋骨を骨折して本人いわく「三途の川を見て戻ってきた」と言っていましたけど、だからすごかったんですよ。あの時のザ・グレート・サスケは背負っているものが膨れ上がり巨大なものになっていた。それに押し潰されない人間としての力が、みちのくの生命力になっていたのです。

ハヤト選手がいない間、みちのくのリングを守り続けてきた選手たちも生命力があると思います。

人生 30年続いている理由をあげるとすれば、それがその一つになるのでしょうね。

みちのくの中だけでなく、拳王選手のように他団体でステータスをあげた選手もいます。これも会社として、新崎人生として本人のことを思って送り出さなかったら、ああはなっていません。団体の体力を思えば絶対に残ってほしいにもかかわらず。

人生 そこは私のスタンスとして、ステージはどんどん上げていってほしいという考えがありました。ハヤトのようにみちのくの中で上げる選手もいれば、外に出てあげられる人間は出るべきだと思っていて。拳王に関してはまさにそういう男だと思っていました。そしてこちらの期待を裏切ることなく…いや、期待以上にプロレスリング・ノアさんで活躍してくれているのが嬉しいですよね。

期待以上ということは、ヘビー級でトップになるという予想は…。

人生 正直、していなかったですね。ジュニアヘビー級の中でやっていくのだと思っていました。ただ、拳王はもともと日本拳法で無差別の中でやってきていて、自分よりも大きな相手とずっと闘っていたので、本人は苦にしていないのだと思います。

30周年の中でハヤト選手と拳王選手の再会が実現すればいいのですが。

人生 もちろんそうですが、これに関しては30周年だからどうしても年内にというものではないと思うので。それよりもお互いの気持ちやコンディションが一番いいタイミングでやる方が、価値はあると思うのです。自分が動くのはいつでもできる状態にありますので、あとは本人たちの気持ちがどこでピークになるかですね。私自身も実現させたいですし、ファンも望んでいると思います。

30周年としてのスペシャルなものとは別に、日常のみちのくを今後どうしていきたいかという考えはありますか。

人生 これは週刊プロレスさんのインタビューでも言いましたけど、本来ならばみちのくプロレスは地域密着でもっと県や市、自治体と密接にしなくてはならない団体だったのです。それが実はできていなくて、九州プロレスさんや愛媛プロレスさん、信州プロレスさんといった各県にあるローカル団体さんの方がしっかりとそれをやられている。それらの団体に出させていただいた時に、これは勉強させていただかなければとなりました。代表の方にそれぞれ取り組み方を聞かせていただき、素晴らしいと思いました。

その時、ノウハウは聞きましたか。

人生 はい、教えていただけました。ですので30年以後は大きなことをするよりも小さいことをちゃんと形にして足元を固めていきたいと思っております。特に岩手・盛岡に関しては30年も会社として存続しているのに、盛岡の皆さんから全面的に愛されているというところまではいっていないので…。

それはサスケ選手が岩手県知事選に落選した時、有権者に向かって「盛岡市民ではなく盛岡愚民だ!」と悪態をついたからじゃないですか。

人生 それ、もう時効にしてください。私が頭を下げます。会長(サスケ)もおとなしくしているのでそこは勘弁してくださいというところで、もっともっと岩手県の文化としてみちのくプロレスを根づかせないと、50年続いても意味がない。

リング上に関してはハヤト選手以外となると、MUSASHI選手をトップとしてやっていますが、人材的に増やしたいという考えは?

人生 人員的にはいるんですよ。ただ、新陳代謝をしていない。2004年にハヤトが入団して闘龍門X世代が入って新体制となってから20年近く経っても、みんな今も現役を続けている。昔は私も団体というのは代謝をしていかなければならないという考えだったのですが、今いる選手たちでやれるところまでやろう、できることをやっていこうと思うようになりました。今の選手たちこそ、苦しい中で続けてくれていますから。

🄫みちのくプロレス

MUSASHI選手を見ていると、もっとみちのくの外にも知ってほしいと常々思います。

人生 そこはMUSASHIがこれからどう考えるかですよね。みちのくの中だけでやるのと、外に出てやるのとでどちらが自分の価値を上げられるか、そこは自分で考えて。外に出るならばちゃんと道筋を立てるのが我々の役目だし。そこに関してはどういう方向性でいくのかという考えが本人からはまだ出ていないので、今年中に決めてもらったら対応するというスタンスです。

そして新崎人生の30周年以後ですが…八十八番札所って、何周巡っているのですか。

人生 いや、途中から数えていないので自分でもわからないです。その日が何番札所なのかは今も数えているのですが、何周目なのかわからなくなって…2000年前後にはすでにわからなくなっていました。これはもう、ループです。50ヵ年を迎える頃は76歳になっていますが、まだ巡っているかもしれません。

76歳となると現在のグレート小鹿さんより4つ下、百田光雄さんより2つ下、藤波辰爾さんより7つ上になります。

人生 それでしたら無論、現役でやっています。76歳で確実にロープを渡っています。サスケは今年、終活すると言っていましたが、それはウソだと思います。

ウソ! 二人で50年を迎えたらすごいドラマですよね。どんだけ長いつきあいだと。

人生 自分が現役を続けている限り、会長もやるんじゃないですかね。とはいえ、普段何をやっているのかは全然知らないのですが。控室の会話とかも、そういう話には一切ならないので。

そこは探ろうという気にはならないのですか。

人生 まったくならないです。探っても口を割らないでしょうから。まあ、こちらに火の粉が飛んでこなければ、それでいいんですよ。サスケあってのみちのくプロレスですから、サスケが現役でいればみちのくは50周年に到達するということです。

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